突然ですが、こんな質問を受けたとします。
「薬や手術で病気は治るけど、障害は治らないですよね?」
この質問の回答はイエスでしょうか、ノーでしょうか。
私はこの答えは「イエス」であって、「ノー」だとも思っています。
はっきりしない答えですが・・・。
障害は治るのか、治らないのか?
「イエス」である理由、障害が治らないと思うのは、障害の原因には遺伝要因か環境要因か、先天性か後天性かなどの違いがありますが、少なくともダウン症の遺伝子疾患のように先天性・生まれつき持っている体の「特性」は治療でその原因を治すことは出来ないためです。治療によって3本の遺伝子を2本にしたりはできません。将来はもちろんわかりませんが、現時点ではこれは確かだと思います。
しかし、私は「ノー」、障害は治るというよりも克服できるものだとも思っています。
例えばダウン症の特徴として「運動や知能の発達障害」が挙げられます。確かにこれらは薬や手術では改善しません。ただ、何をしても改善しないかと言ったら確実に「ノー」です。PTの方たちによる運動指導や、デイサービス等での学習や刺激などによって、もちろん親や兄弟の関わりによっても、ゆっくりでも確実に能力は伸びます。ダウン症をはじめとして障害の原因は多々あっても、「健常と比較した状態の違い」によって「障害」という言葉が定義されているわけですから、その状態が健常と等しいか、少なくとも近しいところにまで延びれば、その障害は治っている、とも言えるのだろうと思っています。
ダウン症の方がスポーツをしているのを見たことがある方はいるでしょうか? ちょっと極端な例ですが、ダウン症の水泳世界選手権など見てみると運動発達障害など全く感じないアスリートの大会です。身近なところではもうすぐ3歳になる私の子供は、こちらが言っていることをある程度理解していますし、食事を後片付けを手伝ってくれたり、音楽に合わせて踊ったりしています。
こんな点から私は先天的な障害だからといって治らない、改善しないとは全く思っていませんし、「病気=治る」と「障害=治らない」という考え方は単純すぎると思っています。
健常、普通、障害、って何だろう
似たようなものはまだあります。
「健常」と「障害」。
これは「障害」を持っていないと「健常」、となると思いますが、まだ名前をついていない障害もあると思いますし、障害に名前がついたその日から「健常」は「障害」に変わったりするわけで、今の「健常」が明日の「健常」の証になるわけではなく、とても曖昧な境界線です。
「普通」と「障害」。
障害を持つ子を持つと、「普通の子は・・・」「普通の子だと・・」なんてことを耳にするようになります。同じ障害を持つ子の親同士の会話でも健常の子を指して使っているのを聞いたりしますが、単に健常の子が多数派なだけで、障害を持つ少数派が普通ではない、なんていうのは随分と乱暴な表現だと思います。その境界線も場所が違えば変わるわけで、とても曖昧です。
話が少しそれましたが、要するに言葉による区別や境界線は曖昧であまり意味がないので、それにとらわれる必要はないのではないか、ということです。人は人、子供は子供、みんな等しく平等な命だと思うのです。
私の話にはなりますが、子供がダウン症であると告知を受けた後、ダウン症のことを散々調べてグルグル頭を巡らせて、何日も何週間も何か月も出して出した結論は、
治療して治す、じゃなくて、育てて、伸ばして、この子の将来を作ってあげよう。
でした。障害とは関係なく、どの親も考えることではないかと思います。